2021年01月20日

念頭にあたり。

西條です。
あけまして。すでに一月も下旬となりました。
コロナにより実家に帰れず、年末年始は家でもくもくとすき焼きを食べていました、酒を飲んでいました。なんていうか、でもぶっちゃけそれだけしかしてないというか、他になにもしようがない。それが課せられた義務。遠出は出来ず、でも近場も密になっており、特にスーパー。収束の気配は無し。変異種がどんどん増える。

コロナウイルス変異種。
COVID19はSARSCOV2。SARSの変異種といってもいいかもしれんな、と思いました。
もともとSARSを知ったのは香港でのパンデミック。僕が28,9歳の頃だったかな。香港映画がどうなってしまうのか、少々不安でした。テレビに映る香港はみんなマスクをして交差点を歩き、家に帰っても親にさえ触ることもできない。院内感染が多く、悲観して飛び降り自殺をする看護婦のニュースを見たのが衝撃でした。SARSが明けた後も、香港はすっかり自信を無くしてしまった、とどこかの本が描いていました。世界から、香港は不潔だからそうなったんだ、とも陰で言われていました。ある日香港の大スターがホテルから飛び降り自殺をしました。その事件に少しだけ触れた香港の情報誌には、SARSが明けてもどんよりした雰囲気と、前向きになれない人々の気持ちが稀代のスターにも少なからず影響を及ぼしたのかもしれない、と書いていました。

僕はその時の香港の陰鬱さを覚えています。大御所の実力者がスターの自殺についてコメントを求められ、勘弁してくれ、と退散したことも覚えています。その場に香港にいたわけではないのだけれど、数少ない情報を懐と相談しながら得ようとしていました。それから香港映画はSARSをテーマにした短編映画集を作りました。その一遍を監督したツイハークは、襲ってくる鮫と奮闘するアニメを作成。「SARSはシャークと深い関係にある。スぺルを変えるとSARSはSHARKになるんだ」と言っていました。僕は唖然としました。本気なのかこの人・・・しかし同時にその時代をけん引してきたありえない感覚に香港映画の未来へ向かうベクトルは途切れることは無い、と確信しました。

変異種。SARSの変異種。SARSCOV2。その変異種。SARSCOV3、SARSCOV4、SARSCOV5・・・となるのだろうか。当時の香港でも結局ワクチンは出来ず。対処療法しかないまま封じ込めました。それは医療の現場の人々の、死ぬ気で臨んだ結果です。
今現在、日本でも多くの医療の現場がプレッシャーと何でここにいなきゃいかんのだ、という葛藤、思い出す家族の顔と目の前の患者の家族を同じ眼で心で観ています。それは一秒ごとに究極の選択を迫られるようなもので、無理やり涼しい顔を作らなければ、乗り切れない。僕は今なにもわがままなことは言えない。

僕の近くにも徐々に感染したという話が流れてくる。
もうすでに目の前にCOVID19はいて、いつ僕はなってもおかしくない状況にある。
それをなんとか毎日回避することだけが唯一僕が出来うる医療従事者を助ける方法で。金をあげてもおいしいものあげてもきっと一瞬でも絶望が見えれば、足元をすくわれてしまいかねないのだから。

ここ数日は改めてそう思いました。
未来を信じること。未来を守るために今はまだマスクを手放さない、いや口放さないし。極力蜜は避けます。気が緩んでいる人たちがたくさん出てきました。ファミレスで結構大声で話している人もいるそうです。政府に文句言ったって政府も初めての経験だから何が正しいのか未だにわからず、独裁でもないのでタイミングよく決められないし。多分先手先手に動けたとしても、それは本当に必要だったのか、悪いところだけ見られて結局ダメな政府だと言われ、言った人は有識者気取りで誰かの情報を盗んでいるだけなのに。とにかく政府がウイルスを除去できるわけではない。実際動くのは僕らなのだから僕らがウイルスをなくす努力をしなければなくならないのだ。ここ数日改めて思いました。

まあそんなわけで、観る作品も少なくなってきてしまい、
Ζガンダムとか手を出そうとしたりしているミドル世代です。Ζガンダム。YOUTUBEで第一話だけ見られるので見ました。なんていうか、久々に見たんだけど、ここまで不親切な第一話ってないね。全然説明ないし、カミーユとかキレやすすぎる。さらに皆が暴力に走りすぎだ。よく小学校の頃これ俺見てたな、と思ったが、ぶっちゃけ続きが観たい。大人になって設定も展開もほぼ知っているからなお見たい久々に。

映画や音楽、家族や過去に助けられながら今を過ごしている。そう思ったとき、それはいつだってそうだったろう、と気づいた。ひねれば飲める水が出る国で今のところ僕は不満を言えない。今の香港はCOVID19と共にそのアイデンティティが根底からくつがえされかねない不安と必死に戦っている。日本のみならず、世界の倒産件数は多くなり、インバウンド狙いの商業施設も高価な賃料をはらう大企業の象徴的ビルも価値を無くし、本当は僕だって明日にも路頭に迷いかねない、感染と共に、明日は我が身、しかしまだ不満が言えない。きっとまだ戦っていないからかもしれない。

戦わなければならない。そして勝たねば、明日が来ない。
今年はワクチンの年になる。味方は徐々に増えていくと信じる。年頭にあたり。もう下旬ですが。Ζガンダムを全部見ます。この日々をいつか飲み屋で笑って話せますように。
やつらを追っ払う事は出来ないが、僕らはつながっていなくても、やつらを倒せるのだ、一日だけでも英雄になれるのだ。

今日も音楽と映画に助けられている。いつか恩を返す。

2020年12月09日

コロナの冬

西條です。
ハロウィンを過ぎてクリスマスシーズンになりましたが、COVID19の猛威は収束どころか依然一進一退の攻防中。ワクチンが出てきましたが、果たしてどこまで信頼できるものなのだろうか。思ったより早いワクチンの開発にちょっと疑問が湧いており、飛びつく気にまだならない。東京の感染者数が過去最高を記録しています。GOTOトラベルで来年の旅行を予約したのは数週間前。どうしよう。。。。現在様子見のままですが、やはりキャンセルしなければならないのか。く、くやしい

恐れていても何も始まらない。確かにそうだ。数週間前、法事で宮城に向かい温泉宿に泊りました。温泉宿は感染対策をしっかりやっていた。ディスタンスと消毒とマスク着用と。広い食事処に数グループのみの席。新幹線はやはりそんな中だからか空いていて、閉鎖された空間、乗客は皆マスク。ウィズコロナは意識されていると感じる。それでも感染を防ぎきれないのだからほんとにこのウイルスは最悪。打つ手がもうないよねと思う。とりあえずそれから二週間以上たっているが、発熱も無く、健康である。

今年は夏に続き年末も実家には帰れないだろう。残念極まりない。
テレワークもテレビ電話も最初だけで今はちょっと慣れたのか疲れたのかオンライン飲み会もあまり聞かなくなった。やはり最近開発されたワクチンに頼ることしか出来ない。でも副作用怖い。

そんなわけでアマビエも少し沈静化している昨今。映画「鬼滅の刃」を見てきました。
久しぶりの映画館がキメツかよ
なわけですが子供らがハマりにハマっているし、アニメは確かに素晴らしぃ出来で何がいいってCGの使い方が僕が知っているアニメの世代よりもはるかに向上しているし、ストーリーも暗かったり明るかったりメリハリ&緊張感があり面白いし、キャラクターたちの過去、家族の話が充実していてほとんどのキャラが寂しく心に傷を抱えて過ごしていることになにやら惹かれる。

そんなわけで観てきましたが予想通り大泣きして帰ってきました。
まあ話は誰でももう知っているのでしょうからそれはいいとして、思うにこの漫画の作者は子供が親に何を求めているのかとても理解している気がします。だから家族を描けるのかもしれない。もちろん家族にはいろんな形があり、その絆はそれぞれに独特で、お互いに求めるものが違い、いつまでもすれ違っている場合もあります。悲しい事件になってしまうこともあります。故にとてもシビアで、とある家族、としてしか描けないのですが、この作品は最も家族の核になるものを提示しているように思います。それは家族として求めるものが合致したときの幸福感。形にするならば、親子で手をつないで歩く姿がそうでしょう。

よくある光景は実は関係性の大事な核となるものだったりします。映画「鬼滅の刃 無限列車編」はグロテスクですが、子供に見せたい作品でした。これからそれぞれの柱と共に鬼と戦うシーズンになりますが、大バトルの遊郭編は楽しみなのですが、子供にどう説明しようかしら・・・

そんなわけで、コロナ禍の最中たくさんのエンタメに助けられており、はやり映画にはたくさん助けられてしまう。自分で話を書くことも自分を助ける手段になる、本当に映画があってよかったって思います。そして家でテレビで映画を見ますが、やはり映画館で観たいな、と三日も立たずに思います。映画館。やがてゆっくり暗くなり、予告が始まり、少しの静けさの後に本編が始まる。大きな画面と少し反響を含んだ大きな音と。他のお客さんと一緒に見ながらも存在を悟られないように息をひそめる感覚と。なんともいえないですな。コロナで映画館がなくなることだけは絶対阻止しなければならない。自分のためにも。

年の瀬。年賀状の準備はまだこれから。
どこにもいかれないので、せめておいしいものを食べたいなとうまいもの沢山食べてたらまたも太りました。なんだかもう高血圧にもなりそう。あかん。運動しなよと簡単に言わないでください。もうこたつ出したら出られないんですわ。そんなわけで。来年はワクチンの年になるはず。インフル並みに抑え込めれば世の中は元に戻るはず。それまでサバイブ。全集中で家族を守ろう。呼吸するにはマスクが邪魔だけど命ある限り贅沢なことは言わないぜ。

2020年10月07日

コロナの秋

西條です。新型コロナが蔓延し始めてからもう幾月か。本当は去年から徐々に蔓延していたという話もあるわけで。長い戦いです。また終わる術が見つからない。ワクチンの開発だけが唯一の希望ですが、いつになるやら。出来てもそれが本当に効くのやら。インフルエンザも毎回新型がでるため根絶が出来ない。ウィズコロナはインフルと同じく共に生きるものとなるのでしょう。症状が出ない人が多いところが唯一いいところだけれど、重症化は怖いね。インフルもね。

そんなわけで全然人に会っていません。どこにも行っていません。
そのうち行きたいところがだんだんなくなってくるのでは、と、この生活にすっかり慣れていくのでは、と思っています。そんな中、江古田のシャノアールがなくなるという事で、さすがにそれは行かなければなるまい。と。家族で行ってきました。ちゃんとマスクつけて手洗いして。

江古田のシャノアールはうちの嫁と初めってあったところ。映画を作ろうと思い、スタッフキャストを募っていた時に仲間の紹介で初めて会ったところなのです。思い出深い場所が閉店。当時はまだ20代前半の迷惑し放題だった頃。今は40代後半の丸くなった家族持ち。店の前にはメッセージボード。たくさんのメッセージが張り付けられています。お客さんがひっきりなしにやってきます。老若男女。学生、主婦たち、一人の老人、ママ友、中年のカップル、若いカップル、男同士、女同士。こんなにもたくさんの人たちが最後に今一度とやってくるのだなと感動しました。思い出がそこにあり、それを確認して保管しておけるように訪れる様はそれだけで生きている感じがします。最後に家族で記念撮影し、べべで枕を買って帰りました。僕の枕は真夏の汗で汗臭くなっていたので。

このコロナで世界はいろんなものを失い、いろんなことを考えさせられ、いろんな変化をもたらしました。そのすべてがこれからの新しい未来のためのものと考えたいけれど、職を失い、路頭に迷っている人たちも沢山います。職に就いている人も、収入が少なくなり、売上が落ち込み、子ども達も運動会やおゆうぎ会、お弁当時間のおしゃべりが消えています。ずいぶんといろんなことを我慢し頑張らなければならないのだなと悲しくなります。戦時中と比較すれば、とも思いますが、それでも悲しいは悲しい。そんなことを思ってかどうか、すでに休日の公園や街には人の出が戻ってきています。さすがに、さすがにもう自粛は疲れた、ということでしょう。この流れも必然。ふまえたウィズコロナ生活の確立はまだまだこれからです。

世界的なインフレが懸念されています。どうなるのかは五分。なったらなったで借金のある人はメリットがあるし、産業、雇用も伸びる可能性があるし経済が返り咲くことも可能でしょうけど、貧富の差が激しくなり、土地持ちがさらに力をつけるし、ブラック企業が増える気もするし何年か前に払ってしまった学資保険があてにできるかわからなくなるから結局いろんなことで人生相殺されそうです。少なくとも来年の度、来年度になると徐々に何かしらが現実となってくるのでしょう。

映画産業も今はどうやって撮影しているのだろうか。ソーシャルディスタンスなんてできるわけないんだから、なんも気にせずでしか撮影出来ないはずです。大体ソーシャルディスタンスは本当に必要なんだろうかマスクつけてるんだからそれでいいんではなかろうか、と未だに思ってしまう。熱が下がった時から一気に人に移していくインフルとそれは一緒みたいなので、そんな人がいる場合は有効なのかもしれませんけど。ソーシャルディスタンスの考えに対して距離をおくようになってきました。

先日「ワイルドライフ」というポール・ダノが監督した作品を観ました。
職を失った父親ともう一度自分をやり直そうとする母親と、亀裂が入る親の真ん中でどうしていいんだかわからないままの子どもと。そんな三人家族のお話。イタイ人たちが織りなす家族である自分と家族でない自分でした。子供役はあきらかにポール・ダノに顔が似た子供を選んでる。ダノ自身がとてもこの作品を作りたかったのだろうと思います。経済大国アメリカの田舎町は日本と何も変わらない寂れて静かでほそぼそとしていてお金を持っている人がやっぱり一番魅力的で、家族がなればみんな若いころに戻ろうとする危うさとかわいさとイタさがある。人は誰も変わらない。主人公の子供は亀裂の入る両親の心に対してなんも出来ないし、自分自身が破れかぶれになり、当たり散らすこともできない。でも実際はそんなものだと思う。僕もあの少年だったらできることは家族写真を撮ること、撮れることを願う事だけだ。
非常にすっきりとしていた秀作でした。なにやら心に残る。

殺人や殺しや陰惨な人を描くことでセンセーショナルを売りにした作品が多いことに気付く。非現実なのものを描けることが映画の魅力で僕も大好きですが、そんな作品がとても多く、サイコパスの暴力性を芸術として描くことが多い。正直大した才能ではない。だってすぐ思いつくことだし。有名な監督がとっくの昔に作っている。そのほとんどは同じ結末だし、同じような運びだ。

ホントにこの年になって機微や関係性について深く考えるようになった。そしてやっぱり映画はエンタテイメントでなければならないとも。これからのインフレで貧富の差が激しくなり、未来の描き方が少し変わってくる可能性があるなかで、人はどれだけ、その人が不幸であるという作品を観たいと思うのか、金持ちの人も貧乏な人も現実をスクリーンで見ることを期待するだろうか。今一度考える。明日の力は自分への期待だ。だからそれを誘発するために創作には夢が必要なのだ。現実には夢が必要なのだ。もう一度、である、もう一度、信じたいものを信じられるように。

マスク着用手洗い万全。そろそろ外に出てみることにします。

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